46 楽隊(明治時代)

46 楽隊(明治時代)

  一言一行(いちげんいっこう)いさぎよく ピーヒャラドン ドコジャン……。
 音楽隊の旗を先頭に、大太鼓(だいこ)、ケース(小太鼓)、チンチン(トライアングル)、横笛の五~六人の楽隊につづき、祝、出征(しゅっせい)○○○○、と書いた幟、出征兵士、家族、親戚一同、村人の順に長い行列が東村山駅までにぎやかに送ります。日露戦争のころの話です。

 楽隊は各部落ごとにありました。祭礼、青年団の運動会、戦争に出征(しゅっせい)する兵士を送るとき、などが楽隊の出番(でばん)でした。
 隊員には小学生もいましたので、出征兵士を送るときは、学校まで迎えの人が走ります。
 駅前には、各村から出征兵士見送りの列がたくさん並ぶので、楽隊は張合(はりあ)って一生懸命奏(かな)でます。ある時、清水の行列と、武蔵村山萩ノ尾から来ていた楽隊と隣り合せになったとき、当時としてはめずらしいクラリネットを吹いていて、音が大きいのです。こちらは横笛を二、三人で吹いていたのですが負けてはならじと、もう夢中(むちゅう)で吹いたこともありました。

 出征兵士が夜出発するときは、提灯(ちょうちん)をつけてゆきます。凱旋(がいせん)のとき、夜、提灯行列(ちょうちんぎょうれつ)があって、楽隊を先頭に、提灯の明りが夜空に映え、それはそれは美しく、賑(にぎ)やかでした。

 何年頃のことでしたか、高木神社の祭礼に各部落の楽隊が集り並んで演奏(えんそう)したことがあります。笛や太鼓を新しく購入した部落は、自慢で、力いっぱい奏でます。皆(みんな)に楽器をみせびらかしているように見えたものです。

 楽器を新しく買うと、他の部落の人のことでも話題になったものでした。
 皆それぞれの楽器は大切に扱い、横笛は磨きをかけ、房を下げたりしました。
 楽隊の稽古はきびしく、寒稽古(かんげいこ)のときなど田のふちの大きな柿の木に太鼓をくくりつけ、夜十二時頃までやったこともあります。今のように暖かい防寒衣料(ぼうかんいりょう)のない頃でしたの寒空(さむぞら)の星の下(もと)での稽古はつらいけれど、皆休まずに集ったものでした。

 稽古のときの太鼓は、セイロに日本紙を貼(は)って使いましたが、すぐに破れてしまうので所沢でトタン張(ば)りの太鼓を買ってきて使いました。
 楽隊の活動は、第一次世界大戦のときの青島(チンタオ)陥落(かんらく)の頃で終ったようです。
 演奏した曲目は、ほとんどが小学校で教わったものでした。

 鉄道唱歌  汽笛一声新橋を………
 箱根の山  箱根の山は天下の瞼(けん)…
 荒城の月(こうじょうのつき)春高楼(はるこうろう)の花の宴………
 広瀬中佐(ひろせちゅうさ) 一言一行(いちげんいっこう)いさぎよく日本帝国軍人の
 桜井の訣別(さくらいのわかれ)青葉茂(あおばしげ)れる桜井(さくらい)の……
 水師営の会見(すいしえいのかいけん)旅順開城(りょじゅんかいじょう)約成りて……
 戦 友     ここは御国を何百里…

 この他にもたくさんの曲を演奏しました。(p102~104)